Never give up 「羽ノ浦パピヨン」

「行くぞ~!」「こ~い!」
今日も子供たちの元気な声がこだまする!
羽ノ浦パピヨンの練習風景です。

昭和36年に羽ノ浦少年野球としてスタートした、小さな街の少年野球部。
羽ノ浦町では11のスポーツ少年団が活動していますが、その中の一つとして羽ノ浦パピヨンは存在しています。
羽ノ浦少年野球、羽ノ浦スポーツ少年団、羽ノ浦パピヨンと、時代の流れとともにチーム名は変わりましたが、その本質は創部以来変わることなく受け継がれています。

ご存知のようにスポーツ少年団とは、社会体育の一環として子供たちの余暇時間にスポーツを楽しむということが大原則となっています。
健全な身体をつくり、スポーツを通じてフェアプレーの精神を学び、技を競い、試合に参加する歓びや楽しさを体験すると共に、仲間を思いやる心を育て、協調性や創造性を育み、人間性豊かな社会人として成長することを目的としています。

羽ノ浦パピヨンの歴史において、そのすべてをお話することは難しいのですが、特に取り上げるなら1997年と2001年の全国大会出場のことになります。

ただのチーム自慢か?と思われるかもしれませんが、その年その年に頑張った子供たちのことを知ってもらうのも「羽ノ浦パピヨン」を理解して頂くうえではとても大事なことだと思います。

チーム創立以来初めて全国大会に出場した1997年は打撃のチームでありました。その反面、守備力には一抹の不安があったように思います。
県予選の2回戦では、終盤までリードを許す苦しい展開でした。しかし6回に、考えられないような相手チームのエラーで逆転勝ち。その試合がきっかけで決勝に進みました。

決勝戦においては3対0で迎えた最終回、ノーアウト満塁の大ピンチとなったのですが、次打者のピッチャーライナーでダブルプレイとなり、みごと代表の座をつかむことができました。
大会を通じて、他チームより力があったことはもちろんですが、勝負事につきものの「運」がありました。
スポーツ全般に言えることですが、相手側に傾いた流れや勢いはどんな技術力をもってしても止めることができない時があります。「運」があるか否かで勝負が分かれることが多くあるのです。

その年には麻植郡のチームに小学生とは思えないような選手がいて、95mを軽くオーバーするような当たりを何本も打たれたことが、強烈な思い出として残っています。
95mと言えば公認球場のスタンドに入るほどの距離です。高校生や一般ならいざ知らず小学生があれほど飛ばすのは前代未聞でした。

4年後の2001年にも全国大会出場のチャンスが訪れました。

この年は前回出場したチームより走攻守のバランスがとれており、数々の県内大会で優勝を成し遂げました。ただ予選が始まる5月後半から、ピッチャーの調子が落ちているのが気掛かりでした。

戦前の予想では、羽ノ浦パピヨンと前の年に全国大会に出場した八万ファイターズとの勝者が全国大会に行くだろう、と言われておりました。
八万ファイターズは前年度全国大会出場メンバーから6名の現役選手が残っており、中でも投手のO君は身長182cm(当時)、小学生レベルをはるかに超えたスーパースター的存在でした。
彼の長身から投げ下ろす速球を弾き返すことは、小学生には至難の業でした。

試合は予想通り1点を争う緊迫したゲーム展開になりました。
終盤の6回裏に訪れたチャンスにも、相手野手の好プレーに阻まれ得点することができませんでした。
しかし延長9回裏にみごとなタイムリーが出て、サヨナラ勝ちという劇的な幕切れで全国行きの切符を手にすることができました。

相手チームのエースを攻略したというより、羽ノ浦パピヨンの子供たちに「運」があったのです。
子供たちが実力以上のプレーを随所に見せ、必死に戦っている姿は関係者や観戦していた人々に感動を与えたことは言うまでもありません。

O君と比べ、40cmも小さい羽ノ浦パピヨンの主将西丸和孝投手の頑張りが、最後に幸運をもたらしたとも言えます。
大会前に調子を崩していたのにも関わらず、最高の集中力をもってチームを勝利に導いたのです。

また、その試合で決して忘れることのできないことがあります。

延長9回の表、身長182cmのO君が放った打球は、90mを越える超特大の当たりでした。
羽ノ浦パピヨンの左翼手は代打を出したことから控選手の岸和輝が守りについていましたが、彼は決して器用な選手ではありません。
どちらかといえば守備を苦手としていました。ただ試合展開の中で彼が守ることになるかも知れないと予想し、前日までの練習で、彼には90mほどのノックを何本も受けさせていました。

しかし彼が守りについても、90mを超える打球を捕ることは不可能だろうとしか考えられませんでした。
なぜなら、90mを超す打球は子供の持つ距離感をはるかに超えているからです。

ところが彼は半分グラブからボールを覗かせながらも必死でそれをつかみ、みごとにキャッチしたのです。
全国大会出場への陰の立役者です。
日頃から目立たない存在の彼が大舞台で見せたプレーは、単なるファインプレーと言ってしまえるほど簡単なものではありません。

陽の当たる場所で活躍するレギュラー選手ではなく、控選手として頑張ってきた彼の活躍は、今も忘れることのできない素晴らしい思い出です。

さて、 二度の全国大会出場は子供たちにとっても指導者にとっても、日頃の練習では決して学べない貴重な体験になりました。

羽ノ浦パピヨンの子供たちは、大きな全国の舞台でも決して臆することなく最後まで力を出し切り戦いましたが、球運味方せず初戦敗退となりました。
ベンチワークにおいて十分な後押しをしてやれなかったことを今も悔いています。

遠く茨城県水戸市で果敢に挑んだ全国の壁は、予想以上に厚いものでしたが、これからも子供たちに熱意がある限り、水戸へのリベンジは続いていくはずです。

また、少しさかのぼった過去にも素晴らしい思い出があります。

1991年夏、羽ノ浦パピヨンのOB糸林良公が徳島商業高校時代に甲子園に出場したのですが、その徳島県予選大会でのことです。

羽ノ浦スポーツ少年団当時のチームメイト宮崎が、那賀高校のエースとして出場していました。
試合の終盤まで徳島商業高校が那賀高校にリードされ、負けムード漂う中一打同点、逆転のチャンスに糸林に打席が回ってきたときには誰もが敬遠だと思いました。

なぜなら糸林の打撃センスは県内一との評判で、他高の監督に「糸林とは勝負できない、今年の徳島には彼を押さえる投手はいない」と言わせるほどの選手だったからです。
後に全日本高校選抜のクリーンアップを打つほどの逸材でした。

しかしその場面で、かつてのチームメイトである宮崎は敬遠せず、正面から勝負に出ました。結果は糸林にヒットを打たれ、それがきっかけで敗れ去りました。

後日、宮崎に会う機会があり『なんで敬遠せんかった?』と聞いたら、彼は笑顔を見せながら『敬遠なんかしたら糸林に悪い!』との答えが返ってきました。

スポーツマンシップの真髄はこういうことなんだ、こんな素晴らしい子供たちとグランドに立てたことを誇らしく思った瞬間でもありました。

さて、我が子が野球をしたいと言えば必ず素質うんぬんを唱える親がいます。
何を根拠にそう言うのか不思議です。
将来プロ野球選手にさせるのであれば素質も必要かもしれませんが、子供のうちはどんなにスポーツが苦手な子でも、必ずうまくなります。

また、野球をやらないか?と声をかけると、親の中に「野球で飯は食えん!」と言う人もいます。
子供たちのスポーツをしたい、という気持ちは純粋です。将来の生活の糧に結び付けないでほしいのです。
学生時代に、暗くなるまでスポーツに明け暮れたとしても、それがその子の将来にプラスとなることはあってもマイナスになることはありません。

子供がもしスポーツをやりたい、グランドで頑張りたいと言えば、親としてやらなければならないことは、それを止めることではなく進んで参加できる環境を作ってやることなのです。

とかく大人は子供に対して交換条件を出したがります。
試験で100点を取ったらさせてあげる、とか塾に通うならやってもいいよ!とか・・・それを教育や躾と勘違いしている人がいます。
交換条件を繰り返されれば子供はどちらかを諦めるようになってしまいます。

子供の本質は昔も今もなんら変わりません。
これは20余年、少年野球の指導者を経験した結果、確信をもって言えることです。

現在のチームは3人の6年生と、下級生ばかりの総勢18名という少人数です。

野球人口が減ったとは思いませんが、スポーツに理解のない大人(親)が多くなっているのか、また少子化という現状が部員減少の原因となっているのか、子供を取り巻く環境がスポーツ自体を受け入れられないのか、いずれにしてもあと何年も続けられないほど部員確保は深刻な問題となっています。

昨年9月に新しいチームとしてスタートした当初は、練習試合の相手にも迷惑を掛けるようなボロボロの状態でした。
チーム作りにおいても試行錯誤を繰り返し、夢も希望もない日々が続きましたが、2月に入り寒い冬のグランドで頑張る子供たちを見ながら、わずかながらも希望が見え始めたことを実感しました。

オフシーズンにコツコツと練習を積み上げてきた、その結果を証明するように、3月の公認大会で準優勝、次の大会では優勝することができました。

指導者として諦めてはいけないということを、逆に子供たちから学んだ瞬間でもありました。
勝つことのうれしさ、楽しさ、そしてその重みを実感した子供たちは、また次の試合も勝ちたい、と目を輝かせています。

今年もまもなく、全国大会の予選が始まろうとしています。

数少ない部員で必死で頑張っている子供たちの夢や期待にこたえたい、少しでもバックアップをしてやりたいと思いながら、今日もグランドに立っています。

平成14年4月25日 羽ノ浦パピヨンスポーツ少年団  監督   広瀬 直樹

町誌「はのうら文化」第8号掲載